7月の通常国会が終了する頃、私の事務所に「衆議院・副議長中東諸国親善訪問議員団」の一行が、パキスタン・アフガニスタンを訪ねるという情報が入ってきた。その知らせと前後するように、松浪健四郎外務政務官が事務局となって「日本・アフガニスタン友好議員連盟」が設立されるという。早速友好議連立上げの会場に出かけていくと、呼掛け人・渡部恒三副議長から始まり、自民、公明、保守、の与党、そして民主、社民、共産の野党も、さらに私の尊命(たける)に至る超党派で議連を立ち上げる中、その場で私も事務局次長という役を仰せつかった。さらに副議長一行が訪問するパキスタン・アフガニスタンにも同行することが許され、8月27日より日本を飛び立つこととなった。しかしながら、この親善訪問団の行動日程の中には、アフガニスタンの戦災孤児を救済する生井さんのストレスクリニックの視察はこの段階においては、まったく加わっていない。なんとしても、参加者に視察に入ることの御理解をいただきたい。
そのためにも自分自身が生井さんが進めている戦災孤児救済のためのクリニックの実態を、認識をしていなければならない、という思いの中から、先に御報告した「アフガニスタン戦災孤児救済のために・その1」の行動を事前に行なったわけである。今となってはアメリカの空爆によって両親を亡くした戦災孤児のために、御自身の私財を投げ打っての生井隆明さんが活動を見た私は以前に増して、より多くの国会議員に、そして外務省の関係者に、さらには国連の関係者にも理解をしてもらいたいと強く願うようになっていた。
パキスタンに向けて出発
8月28日、成田を出発。私は一足先に日本を離れて翌28日、バンコクにて副議長の中東諸国親善訪問団の一行と合流することになった。バンコクで一行と合流した後に、イスラマバードに午前7時45分、到着をする。一行のメンバーをここで紹介しておきたい。団長は渡部恒三副議長、そして松浪健四郎外務政務官(保守党)、自民党からは七条明衆議院議員、佐藤勉衆議院議員、保守党からは井上喜一衆議院議員。野党側は民主党から佐々木秀典衆議院議員。そして衆議院庶務部から土田喜代治部長、五十嵐一郎副議長秘書、鹿村謙太郎秘書課課長補佐、警護官として飯田直貴副議長警護官。そして私、田中甲という一行である。
飛行機の待ち時間。松浪政務官と。写真①
イスラマバードに着いて一行はセレナホテルに向かい、部屋に荷物を置くとすぐにホテルの一室を借りて沼田パキスタン大使によるパキスタン情報のブリーフィングが行なわれる。続いてパキスタンのサジャード前上院議長との会談を行い、まず私たちはパキスタン情勢と共に、パキスタンから見たアフガニスタンの現在の情勢を把握することにしたのだ。
「アフガニスタン状況の正確な判断のためにもパキスタンの勉強をしっかりしたい。貴国(パキスタン)と日本が友好50周年の節目にあるということを喜び、さらに発展させたい。」という渡部副議長からの挨拶とともに、会議が始まった。ワシーム・サジャード上院議長とアズイ前外務大臣が同席をし、アフガンはソ連の戦争の後、混乱の時期につけ込んでタリバンの活動が始まり、カブールを奪取してしまう。その後、(暗殺をされた)マスードがタリバンと戦うが負け、北部に逃げマジャリシャリフ(旧ソ連)とともに北部同盟が出来上がった。パキスタンと中国、そしてインドとソ連という構造なども、頭に近隣地域の地図を思い浮かべながら話を聞かせてもらった。
2001.9.11以降、パキスタンは生きる道を探るために二回の踏絵を試されたことになる。一つは同じイスラム教徒であってもタリバンとは手を切るということを明確に宣言した時。二点目は2002年の1月12日に「テロ行動を許さない」という発言をムシャラフ大統領が行った時。ここでイスラム教の国家ではあっても、アメリカの発言に対してどのような姿勢を持つかということを、パキスタンは明らかにしたことになる。もとよりインドとの対立の中からパキスタンはアメリカとの関係を明確にせざるを得なかったという状況ではあったが、9.11テロ以降、その決断を迫られることになり、ムシャラフ大統領はその決断、及び行動をとったことになる。
夕刻にはスムロ前下院議長の自宅を訪ね 写真②
②スムロ前下院議長と親しく懇談をする。
会談を行った。やはりパキスタンからみて現在のアフガニスタンの状況は、大変に厳しいものであって、300万人の難民を受け入れ、現在もその約半分の 150万人もの難民が残るパキスタンから見ると、アフガニスタンには現段階ではテロの根絶という望みを持つことができる状態ではないという。武器、麻薬・・・。アフガニスタンの混乱は現在も続き、また20年を越える争いの中でインフラは壊滅的な状態。電気の供給はできないという。さらに地雷も数多く埋められ、(約1000万個といわれる)農業の再建もすぐには難しい。さらに、治安の問題や、その根本にある法律というものの体系、いわゆる法治状況が確立されていないということだ。確かに安全が確保されなければ生活の中の安心は作り出せないものであるし、その先の開発に至ることすら到底できかねるだろう。
スムロ前下院議長は私たちに夕食前の配慮ある、おやつと美味しいお茶を用意して振舞ってくれた。パキスタンの政治家の中でも信頼の厚いということだが、人柄がうかがえる。
一度私たちはホテルに戻り、すぐさま大使公邸へ向かう。沼田大使が迎えてくれた大使館には2000年3月に森前総理が訪ねられたということで、写真を飾ってあったのが印象的であった。その日は残念ながら大使夫人がお留守ということもあって、日本料理ではあったが、コックはすべてパキスタン人という「made in Pakistan日本料理」をいただくことになった。写真③
③パキスタン風日本料理?
食事中の大使のお話から、厳しい近隣諸国の中でパキスタン駐在大使館員の御苦労が伝わってきた。
この夕食会を終える頃、私たち一行の中には「いよいよアフガニスタンに明日から入る」という緊張感が高まってきた。
成田を経ち時差の中、会議ずくめの一日であった。
アフガニスタン入り
8月29日、イスラマバードの空港よりUN機(国連機)に乗り、いよいよアフガニスタン・カブールに飛び立つ。
午前8:25予定通り、カブール空港に到着。空港の周辺には機体が爆破された残骸がそのまま残っており、視察に入った国会議員一行は目を丸くしてその様子を見ていた。滑走路自体もかなり凹凸が激しく、UN機は着陸した後もガタガタと揺れている。タラップを降り、VIP専用通路に案内され、私たちはワンボックスカーに乗り込み、入国審査を受けることなく宿泊先に直行することになった。その際駒野欽一大使が出迎えてくれた。(アフガニスタン駒野大使については後ほど詳しく触れようと思う)私は10日前にこのカブールの街中を見て体験をしていたが、初めて見る街の様子は戦後の日本の状況を思い出している議員もあり、その光景に驚きを隠せない様子だ。
一行は大使館が借り上げたゲストハウスという、日本でいうところの民宿に泊まることになっているそうだ。写真①
①ゲストハウスには大使館SPが常に
ガードしてくれる。
イスラマバードのホテルとは別世界のお世辞にも良い環境といえる場所ではないが、しかしながらカブール市内においては大使館が考えた最善の場所ということのようだ。アメリカの空爆による家の破壊を免れた市民の中には、自宅を改修してゲストハウスとして、海外からのNGO活動家や訪問客に貸し出し、自らは他の住まいに住んでいるという。つまり、外貨を稼ぐビジネスである。「この建物からは基本的には外出しないようにしてもらいたい、特に一人歩きは絶対しないでください」という大使からの最初の注意を受けた。
先程来私は心配していることがあった。実は空港にAWOA(詳しくは、アフガニスタン・戦災孤児救済のためにその1)のメンバーが生井さんを始め出迎えてくれていたのだが、VIP専用口から出たこともあり、空港で会うことができなかった。しかし驚いたことに、どこから聞いたのか、生井さんやムスタード(教師)サフィーたちがゲストハウスに駆けつけてくれたのだ。最初に渡部副議長(団長)御挨拶をし、次に松浪外務政務官に御挨拶をする中、戦災孤児の救済の活動に大変関心を持っていただき、時間が空いた時にクリニックに訪問してくれることにもなった。当初の予定には入っていなかったことに加え、政府の公の一行であるだけに、そのような話を団長や政務官が検討をしてくれることは大変嬉しい。
空港で預けたままになっていた荷物を部屋で受け取り、私たちはカブール市内にある日本大使館に向かい、写真②
②大使館に到着し、記帳をする。
駒野欽一特命全権大使からアフガニスタンの現状を伺う事になった。
この大使館は6名の人員で構成され、最近元NGOから2名加わったということである。治安、教育、地雷の除去、女性の人権などを柱にし、日本がどのように協力ができるか日夜検討されている。特にインフラの整備に関しては日本の道路の修復・建設が望まれているようである。日本は最終的に最も経済的支援を行なう国であるから、優先順位をつけ的確にアフガニスタン再建のために協力を行なう必要がある。
空爆後のアフガニスタンの動きは、昨年(2001)12月各派代表者による暫定政権がボン合意によって設立される。緊急のロヤ・ジェルガ(国民大会議)の召集など、平和プロセスが着実に進展を遂げた。さらにアフガニスタン復興支援会議が本年1月、東京で開催され表明された支援額が総額で45億ドル以上となっている。本年6月の緊急ロヤ・ジェルガでカルザイ暫定政権議長が、アフガニスタン移行政権の首班に選出、主要閣僚人事が発表された。本年5月には川口外務大臣(日本閣僚として初めて)訪問した。7月にカディール移行政権副大統領が暗殺され、また、本年2月に日本大使館を13年ぶりに再建という経過をたどっている。写真③
③左端が駒野大使
駒野欽一大使は昭和22年2月生まれの55歳で、パキスタン国日本国大使館の参事官を経て、アフガニスタン国の特命全権大使になられた方であるが、若干体調を崩されていて、日本食もままならないこのアフガニスタンで御自身で自炊され、無理をしてでもこの国のために職を遂行しているという御様子で胸が締め付けられる思いがした。さらにお話の中で今から16ヶ月以内にロヤ・ジェルガで憲法を制定し、その法制化のもとで普通選挙を行い民主主義の形をなす議会をつくることが次の課題だと言う。GDPは約200ドル程度で世界の最貧国といえるだろう。その状況のなかでパキスタンから約150万人の難民がアフガニスタンに戻り、その40パーセントがカブール市内にとどまる。貧しさは生活をしていく上で限界を超えた状況である。
JICAの調べによる子どもは4人のうち1人は5歳までに死亡、というが実際それ以上であるという見方が正しいかも知れない。
私の所見だが、ロヤ・ジェルガによって選ばれたカルザイ大統領は、アメリカの要求を最も聞き入れる指導者であり、アメリカに空爆に受けたことに恨みを持っているアフガニスタン市民にとっては、アメリカの傀儡政権という受け止め方がされているのではないだろうか。また、地方では各民族や軍閥が勢力を保っていて、アフガニスタン統一国家への道のりはまだ長く厳しいものと考えられる。一方アフガニスタンからみた日本の印象はこの20年間アフガニスタン・カブール市内で危害を加えることは勿論無かったわけで、さらに日本はアメリカやその他の国との戦争で敗戦国家になった経験を持ち、その後目覚しい復興を遂げたことにより畏敬の念が持たれている。総じて日本に対しての信頼は大きい。その点は日本が今後復興に協力していく上で、心理的に力強いものとなるだろう。
大使館が用意してくれた昼食をいただいた後、アフガニスタン移行政権機構のアブドラ外相にお会いするため大使館を出発をする。
私の選挙区内(浦安市)における市長選挙が行なわれていたため、しばらく更新が
できずにおりました。心からお詫びを申し上げます。引続きアフガンのレポートを是非
御覧下さい。
アフガニスタン移行行政機構の大臣の中で、最初にお会いする方が外務大臣・アブドラ外相41歳である。パシュトゥーン人の父親とタジク人の母親を持ち、カブール大学医学部卒業の眼科医ということであるが、1980年~90年初頭にかけてマスゥード司令官最高顧問になり、国防省局長、北部同盟報道官、そして外務副大臣を経て今回の行政機構の中でも年齢の割には安定感のある方だと聞いている。外務省の前は空港から車でゲストハウスに向かう際に通り過ぎた場所だ。また、ビザが発行されずパスポートを一時期預け、NGOの団体として直談判をしたことを思い出していた。車が右折し外務省に入ると、大臣の執務室のある建物まで(かなり奥の方であるが)案内された。さらに私たち日本の国会議員は大臣執務室に案内され、歓迎の意を表すアブドラ外相と握手を交わし、席についた。しっかりとした会議室というものではなく外務大臣を囲んで椅子にかけた様子はまるでフリーディスカッションをするホームルームのようであった。
写真①
最初に副議長から親善外交では定番とも言える挨拶があり、その中で参加した国会議員の紹介も行われた。それを受けて今度はアブドラ外相が歓迎の挨拶を行う。内容は「東京会議では日本が世界をまとめてリードしてくれ、そして会議の結果は十分に満足している。駒野大使に関しては日頃大変世話になっていて、JICAの活動に関してもあわせて感謝する」とのことだった。また日本の国会でアフガニスタン友好議連が発足したことを副議長の挨拶から聞いた外相は、「さらに今後日本との交流を期待したい」と述べ、「アフガニスタンは平和を約束するので世界の協力をお願いしたい。またロヤジルガは国会と国民との約束であるのでこれからも全力で対応してゆきたい。」と述べていた。写真②
会談が終了してアブドラ外相は私たちを車のところまで見送りをしてくれた。そして車が出るまで、玄関で私たちの車に敬意を表明する右手で挨拶をしてくれた。そして車が出たことを確認すると同時にすばやく振り向き階段を駆け上がり何やらあわただしく執務室に戻る姿を、私は車中から見逃さなかった。多額の拠出を約束している日本からの国会議員に貴重な時間を割いて対応してくれたのだろう。執務室に戻るアブドラ外相の後姿から私はそのように感じていた。アフガニスタンの一日も早い真の独立を祈りたい。
車が外務省の門を出た所で、松浪健四郎外務政務官(当時)より、当初予定されていたファヒム第一副大統領との会談の調整がつかず、急遽「カブール市内にある戦災孤児救済のためのクリニックに訪問します」という発表があった。私もこのアフガニスタンの視察の中で副議長をはじめとする超党派の国会議員の方々になるべく生井さんが活動している戦災孤児救済の姿(アフガニスタン戦災孤児救済のために その1参照)を見てもらいたい、と思っていたが、そんな早くこの機会がおとずれるとは思わなかった。嬉しい驚きである。
車は松浪外務政務官の案内によりカブール大学近くのAWOA(アジア戦災孤児救済センター)に程なく到着した。さすがにカブールに三年以上御夫婦で生活していた松浪政務官は、市内の地理に詳しい。私たちとは別の乗用車で移動している渡部副議長が、先頭をきってクリニックの皆様の労をねぎらうために、早足で院内に入っていく。その後を五人の国会議員と関係者がワゴン車から列をなし、クリニックに入っていく状況は、カブール市内の人たちから見ると一体何が起こったのか、という異様な風景に受け止められたようである。考えてみれば、パトカーの先導でアジアの中で最も豊かな国と思われている日本の国会議員が訪ねてくる場所が、自分達の住んでいるこの周辺にあるなどと思ってもいないアフガニスタンの人々にすると、それは日常生活に突然入り込んできたビッグニュースのようなものであるのだろう。
院内で私たちを迎えてくれたのは生井院長をはじめとするストレスクリニックのスタッフと申し上げたいところだが、実際に出迎えたのは、戦災孤児とその母親または親戚の、「一体誰が来たんだ」という怯えた眼差しであった。そして、子どもたちだけではなく近くで体調を崩し横になっている今にも息が絶えそうな老人の姿等が、国会議員の視界の中に飛び込んできた。想像を超える惨禍の実態が精神を病んだ子どもたちの遠くを見つめる虚ろな眼差しを見ることによって、あらためて認識をさせられた思いがする。
中央には院長とエスポージマイ女医が診察をしている部屋写真①・②
①治療室を視察する渡部副議長 ②治療をしているエスポールジマイ女医
手前左に進むと診察を待っているたくさんの患者 写真③
③待合室を視察する様子
がいる待合室。子どもと付き添っているのは殆どが女性で、部屋の中ではブルカをとり顔を見せているが、日本人に対し、女性がこれだけ素顔を見せることは普段、考えられない。
二階に上ると右に集会場があり、左にはマッサージなど整体を行なう部屋がある。その階段の上り口にカブール市内の戦災孤児の実態調査を行なっているファテマという女性が立っておりにこやかに案内をしてくれた。私は十日ぶりに彼女と会う喜びでつい握手をしてしまった。後で生井院長から「アフガニスタンでは素顔を見せることはおろか、握手をすることはあってはならないことで、場合によっては他の男性からあなたに危害を加えられることもあるかもしれません。」という厳しい注意を受けることになった。イスラム教徒の習慣の違いを改めて認識させられた場面である。
渡部副議長が集会場で挨拶をする。写真④・⑤
④部屋にはいっぱいの孤児と
付き添いの女性 ⑤挨拶する渡部副議長
「あなたたちの健康回復のために、私たち日本人はできる限りのことを行ないたいと思う。だから安心して生井院長の診察を受けて欲しい。」というアフガニスタンの復興のために戦争から這い上がった経験のある日本人として、心から皆さん方の苦労を察し、心から親愛の思いを伝える挨拶であった。どの政党の国会議員も一人一人子どもに対して優しく接してくれるその姿は、写真⑥・⑦
⑥患者に優しく声をかける
生井院長 ⑦マッサージ室を見る
井上喜一議員(保守)と
佐々木秀典議員(民主)
(なんとしても戦災孤児救済のために日本政府に理解していただきたいと思っている生井院長と私は)心の底から喜びがこみ上げてくる光景であった。
クリニックの中ではお茶すらも、何のもてなしはできない状況であったが、視察が終わった議員は、「厳しい現実を見て日本の役割を感じた」という会話が次々となされていた。暖かい心を持つ国会議員の仲間に改めて感謝をしている。
七条明議員(自民) 松浪健四郎議員(保守)左
佐藤勉議員(自民)右
続く。